社会の最近のブログ記事

第二次世界大戦における日本の参戦を蛇蝎のごとく嫌っている人がいることは知っている。

本当にあったのかどうか異論のある侵略地での暴行を得意げになって糾弾のネタにしている人がいることも知っている。

日本の法に守られ、日本の繁栄を享受しながら、日本を窮地に追い込んでいく人々がいることも知っている。

かつては非国民と呼ばれた者どもが、現代は時代の寵児のごとき扱いを受けていることも知っている。

陰謀論めいているが、中国共産党の洗脳政策が順調に機能しているのか、まさかそんなことはなくとも、彼らにとって、祖国とはそれほどまでに唾棄すべき存在なのか。

思い切って「北」に制裁を…片山自民党参院幹事長

言いたくなる気持ちはよくわかる。確かに、核ミサイルが降ってくるかもしれない。あるいは彼はその発言によって更迭されてしまうかも知れない。しかしそれはごく当たり前に日本の行く末を案じている人々にとって共感し得る言葉であろう。

首相、正月の靖国神社参拝は見送り

国内情勢だけを見ていては政治はできない。ひょっとすると単にスケジュールに問題があっただけなのかも知れない。いずれにせよ今は、拉致事件と日朝交渉が絡んで難しい局面だ。発言や行動に慎重でなくてはならないだろう。

だが、これで鬼の首を獲ったかのごとく狂喜している輩がいるだろう。冒頭で述べた、うまい汁を啜るだけ啜って口先だけ「国際協調」だの「戦争責任」だのをしたり顔で持ち出してくるような人間のことである。

しかし彼らは一体どういう国を自分の子供や、孫、あるいはその子孫に残してやるつもりなのだろうか。危急の際、第一線に立つつもりもなく、自分は安全なところから、他人の子供たちに死んでこいと云うつもりなのだろうか。きっと晋の王衍を気取っているのだろう。

なんて卑怯な。

慰安婦問題で散々国民を煽った輩は、結局そのような事実を証拠として挙げることができないとわかると、理屈にもならない屁理屈で国民を騙す方向に走った。「広義の拉致」とはなんじゃらほい。そうまでして誇りを捨て、日本を貶め、犯罪者国家の一員として、将来にわたって生きていけと、彼らは若者に強制する。

今回、北朝鮮に制裁を加えろと口にした政治家に、賛辞を送りたい。我々はいつまでも東京裁判史観に囚われているわけにはいかないのだ。小泉首相が靖国参拝を諦めたという事実は、未だ国内においてすら、自らの子孫を理由のない罪人として縛り付けておきたいという勢力が存在することを示し、またしてもそれに屈服したということを表している。

一体、この国の大人は、どんな社会を子孫に残すつもりなのか、自らの子孫を永遠の罪人としてゴルゴダの丘に磔しておくつもりなのか。引退間近ではあるが、現時点での指導層である60年安保だの70年安保だのを経験した世代は、所詮、自分がよければ子孫などどうでもよいのではないか。その薫陶を直接に受けた世代人も変わらないだろう。彼らは懲りない。自称エリートの節操のなさは、戦前の「五一五事件」だの「二二六事件」だのを振り返るまでもなく、日中戦争を省みるまでもなく、口先だけの「自分たちが権力を握って好き勝手したい」というだけでの暴君のユートピアに過ぎないのだから、自らの権力のために日本を売るだろう。売るものがなくなるまで。

朝鮮の事大主義は、今もって改められていない。彼らは、もはや中国のコントロールも意に介さないだろう。地政学上、無視するわけにはいかないので、それなりには敬意を払い続けるだろうが、アメリカが本格介入するまでは、相手国を舐めきった態度に終始するに違いない。彼らにとっての中華は、既に中国ではないのである。そして、知識人だか、市民運動だかは知らないが、表面上利害を一致させた彼らは、これからも日本という国を貶め続け、搾取し続け、これに対し日本という国も傲慢な態度を続けてきたツケを払いきれず、つけこまれ続け...

新年に相応しい話題をと思ってみても、ドンキは放火の憂き目に会い、文字通り罪のない小さな女の子が変態男の毒牙にかかり、一体、我々は日本の現状をどう判断し、どう道をつけていけばいいのだろうか。道をつける気のある大人など一体、どれくらいいるのであろうか。不況を言い訳にして出入り業者に悪辣な要求を突きつけ、人権の名の下に再犯を繰り返す性犯罪者が世に跋扈する。これで「豊かな未来」を夢見ることのできる人間は、明らかに「何か」に洗脳されているとしか思えない。

もういいのではないか。暴力にさらされないと、生存権を剥奪しないと懲りない奴は、私権社会である以上、撲滅することはできないのである。生まれて間もない姪や、今年高校生になる娘、中学生になる息子のことを考えると、マスコミだの知識人だのの発するたわごとは、暴力でもって粉砕し、その上で、日本人を守ることのできる、その自覚のある世代を育てていくしかないのではないかと思うことがある。

そして、ことあるごとに蒸し返される日本の戦争責任だが、日本は単に敗北しただけである。もちろん、敗者ゆえに生殺与奪の権を勝者に握られてしまったことは仕方がない。でも、あれから何年たつのだ。今更軍事大国化しようとしても経済的に不可能であることは火を見るより明らかだ。しかも、戦争なんてどこの国でもやってたのである。「戦争は政治の一手段である」というのはクラウゼッツだったか。ある意味、それだけのことなのだ。そんなことで未来永劫、敵国条項に怯え、ありもしない戦争犯罪に怯え、子供たちが生きていく意味を持てない国に日本を押し込めていくのは正しいことなのか。

マスコミや知識人といえば、やらせは当たり前。編集次第で如何様にでも情報の印象を変えることができる。そんな情報をいつまで後生大事に拝聴しなくてはならないのか。ましてやそれは、センセーショナリズムに過ぎず、というよりむしろそうやって矮小化して真実を伝えないことがままある者たちの言説に、いつまで従うのか。

これから生まれてくる、あるいは今生きている子供たちに少しでも展望のある未来を残すことこそ、大人が年始にあたって祈願すべき内容であろう。

大人のなすべき唯一のこととは、誇りを持って生きていくことのできる社会を残すことである。

ちゆ12歳が元ネタ。

毎日新聞は男子大学生がキライ?

ネタ元のネタ元。

女子大生に聞く:今時の男子は「幼児的、バカ、無責任」

馬鹿がいる。証明不要の馬鹿がいる。元毎日新聞社編集委員の大学教授がどうやら毎日新聞に紹介したらしい。朝日は売国奴、国賊と一部で認識されているが、毎日新聞はどうやら全社で脳みそが蕩けているようだ。マスコミのプライドも何もあったものではない。元になった記事を引用すると、


 女子学生は、いま時の男子学生をどう見ているのか? 大阪国際大学人間科学部(守口市)の心理コミュニケーション学科の12人が、女子学生を対象にしたアンケートを、「男の値打ち 女の目」と題した卒業論文にまとめた。結果は、「幼児的、無責任」など、どうも評判はよろしくない。【梶川伸】

どうやら女子学生の意識調査を行なったらしい。どういう意味のある試みなのかは知らないが、まあ、調査自体はどうでもよい。いかに高度な統計手法を駆使し、玄妙な分析手法を適用したかは不明だが、ネタに困った女子大生がでっち上げた程度のものだろうことは記事の続きからも想像がつく。


 全体では、マイナス回答の総計が8702で、プラス回答の7659を大きく引き離した。これらから、男子学生の5悪を「幼児的、バカ、無責任、無神経、うそつき」とまとめた。そのうえで、「大人になりきれていない」という声が強いと分析している。やる時はやる、責任感がある、といった好印象の回答もかなりあったが、女子学生の「期待値」も入っていると見ている。

この結論から読み取れるのは、頼りになる男もいるけど、多くは人間として最低ね♪という意見であろう。しかし、内容が示されていないため、一体、何を根拠にそんな結論が出たのかちっともわからない。


 宮本教授は「男子学生は幼いという印象を持っていたが、やはりそうか。他人を理解しない、主体性がないなど、大人になりきれていない。危機には違いないが、学生自身が危機感を持っているところに救いがある」と分析している。

出ました。馬鹿の元凶。こりゃまるで、女子学生に媚びるただの中年ですな。およそ昔から若者に媚びる大人には碌な人間がいませんが、元毎日新聞編集者といえば、リッパにマスコミ人。やはり碌なものではないようです。大体、シュメールの頃から「今時の若者は…」みたいな年寄りの愚痴は世代を越え何千年も繰り返されているのですが、二十歳を越えたばかりの小娘の戯言を無批判に迎合するこの方の言説は既に愚痴ですらない。少なくとも社会人としての大人なら、このようなペーパーを見せられたら、憤慨して当然である。記事を読む限り結果の解釈が恣意的で、信用が置けない。そもそも何か「論」を立てているところもありそうにない。アンケート集計などただの作業である。どこに「論文」としての体裁があるのか(価値云々は最早問わない)。一体何を教授・指導していたのか、業務実績が問われてもおかしくないようなものが提出されたのである。なめてるのかという憤りくらいは感じないのであろうか。

おまけに、「危機である」と認識してるにも関わらず、そのような事態を「救いがある」の一言で纏めてしまい、そうなるに至った歴史的、社会的な構造分析なり、現状の突破口なり、そのものズバリの解答までは求めないものの、せめて方向を示すような意見を述べるのが知識人のレゾンデートルなんだが...或いは、記者が記事を纏めるさいにそういう話をオミットしたのなら、マスコミが自らの存在意義に自分で止めを刺すようなマネをするとは...所詮は自称「クオリティペーパー」ということか。

まったく、現代マスコミの本質でも触れたことだが、マスコミの煽動は、止まることを知らない。別に世の男子学生諸君が全て「頼りがいのある、責任感に溢れた漢達」ばかりである。何てことはありえないが、「卒論」(も一応論文ではある)に値しないようなアンケート調査でも世間を煽る事ができるとなったら、脇目も振らずに飛びつくその有様は、餓鬼が食い物を奪い合う姿を髣髴とさせる。そして彼らは決してその責任を引き受けることがないのだ。さらに嘆くべきは、かのお方が「大学教授」だということである。一応日本の知識人を代表する職種でもあるのだが。

概ね70年代を境に、日本は豊かさを享受する時代に入った。それまで「私権」の獲得に血道をあげ、つまりは「豊かな生活」を唯一の価値観として日本人は遮二無二学び、働いてきた。しかし一旦それが実現されてしまうと、私権価値観は求心力を喪い、しらけたムードあるいは享楽的なムードが社会を覆った。「私権」は絶対的な価値観たりえず、価値観なくしては判断はおろか、そもそも生きていくことすらできない生物である人間は、生活に充分な程度には達成した「私権獲得」から次の目標に向かい始めた。ある時は「心の豊かさ」で代表される対象の消費として表れ(小はレジャーへの投資の増大という形で、大はボランティア、NGO活動への参加という政治方面への流れの形で)、またある時は新興宗教の勃興という形で現われた。一方で確固たる価値観の喪失は、家族や地縁共同体の徹底的な崩壊を齎し、相対主義の跋扈を許し、極端な個人主義的生活を生み出し、自立への基盤となっていた有形無形の支援を根こそぎ奪い去っていった。

一時期、「価値多様化の時代」とマスコミが報じたこともあったが、多様化したのは精々が消費財であり、男の、そして女の、活力の源というべき価値観は多様化どころか、マスコミや知識人の繰り返すマッチポンプのおかげもあって、姿を潜め、現代はかろうじてその残滓をかき集め、体裁だけでも留めようとしている状況に過ぎない。

このような時代だからこそ、新たな価値観、新たな認識を引っさげ、輿論をリードし、社会を統合することのできるる人材が求められるのであり、まさしくその中核を担うのが、そのような認識を産み出すことを社会から期待されている職業階級、即ち、「知識人」とか「大学教授」とか言われている者たちなのである。しかし、その本来の責任を放棄し、目先の現象事実に安易に迎合し、知的活動を忘れてしまっているのが、現代知識人の姿である(皆が皆そうではないと信じたいが)。その端的な例が、件の教授であろう。

学生が大人になりきれず、幼いままであるのは、成熟した社会人へ育つことを強制する社会的圧力がないからである。他人を理解しないのは、そのような機微を察する体験を積み上げる場が失われているからである。主体性がないのは、意識せずとも社会に受け入れられている価値観が喪われているため、判断を下すことが昔に比べて極めて難しくなっているからである。それは誰の責任か?それは、今社会を動かしている大人の、つまりは、社会人の責任である。それを小娘の色香に迷ったのか、ものわかりの良いところを見せて点数を稼ごうとしたのかは知らないが、「(女子)学生自身が危機感を持っているところに救いがある」などという職務放棄、敵前逃亡に等しいまねをしていて、どの口が語っているのか。呆れて者も言えない。将に「(自分を取り巻く)他人を理解しない、(女性の不満に迎合するだけで職業に対して)主体性がない」

加えて深刻なのは、件の卒論をものにしようとした彼女たちは、なぜ「の値打ち の目」も併せて論じようとしなかったのか。彼女たちだってわかっていないはずはないのだ。


 研究メンバーの川岸真紀さんは「目的を持たず、何となく生きている人が多い」と語るが、「女子学生も一緒と思う」と付け加えた。

と記事にもあるからだ。ではなぜ?ここからは完全に臆断になるが、つまりこういうことだと思う。

バカから脱却するには、常に知的好奇心を持ち、様々な話題に乗り遅れないよう学問を弛まなく行なわなくてはならない。無責任を回避するためには、時には自らの生活基盤を犠牲にしなくてはならないこともある。そこまでいかなくとも、それなりに経済的、精神的なリスクを引き受ける覚悟がいる。うそつきと言われたくなければ、言行一致は常に自分に課していなくてはならない。当の女性たちは「社会的責任を自覚し、進んで社会を運営する責任を引き受けることができるほど大人で、頭脳明晰、長幼を弁えた配慮を示すことができ、嘘は吐かない」のか?そんな女性が日本の女子学生の過半数を超えているのか。考えるまでもない。現実にそのような女性は極めて稀少であり、目糞鼻糞を笑うの類である。非難は馬鹿にでもできる。無論、誰もが衛の蘧白玉や斉の晏嬰、鄭の子産になれるわけではない。そして、そんなことなど考えているはずもない。いくらなんでもそこまで求めているとは思えないが、自ら身を修めることは、精神的困難に挫けないということだ。そんな面倒は御免蒙りたいというのが心情であろう。

つまり、自ら努力はしないことを隠して、要求だけは突きつける。

そんなとんでもない態度を隠しておこうという意識が働いたからではないか。

あるいはこうも考えられる。

豊かさに慣れきった男たちが、モラトリアムと嘯き、切磋琢磨を忘れ、ある程度は満たされた物欲に安住して責任感や配慮という煩わしさから逃れようした結果、肉体的にはともかく、精神的には逞しさを失い、易きに流れて行くばかりなので、子を産む性としての危機感が募ってきたため、男の「ケツ」を蹴り上げる行動に出た。…ありえない?(^^;) しかし、男は精神的に女に依存するが、女は物理的に男に依存するという点を考えると、より切実なのは女性の方である。ありえない話ではない。実際問題、男はそこまで衰弱している。

しかしいずれにしても、「目的を持たず、何となく生きている人が(男女を問わず)多い」というのであれば、「女の値打ち」も論じるべきであろう。先にも述べたが、戦前、そして、それより遥か昔から高度経済成長時代にかけての「物的な豊かさの追求」が強固な価値観であった時代、つまり「貧しさが当たり前の時代」、少なくとも男女問わず「目的」はあったし、二十歳過ぎて幼いなどということはなかった(一部特権階級除く)。繰り返しになるが、ならばどうすれば良いのか、その回答を示すのが、「知識人」の存在理由であり、その普及に力を割くのが「マスコミ」の存在理由である。それをあっさりとスルーしてしまう現代「知識人」や「マスコミ」は何のために存在しているのか。

そんな無能、無気力なものにはさっさと見切りをつけて、自ら新たな価値観、新たな認識を求めて試行するべきときではないだろうか。秦の商鞅は「学者は所聞に溺れる」と言ったが、観念と知識で飽和した頭に、突破口を見出し、新たな地平へ人々を導くことなど、西から太陽が昇ってもできないのである。

雅楽多blogがネタ元。

会社員殺人、牛丼店の店長逮捕…相次ぐクレームに激怒

傲慢無礼な人間が絶えることはないのだろうか。

現代日本は、私権社会である。私権の対象は、時代に伴い、移り変わってきたというものの、有史以来、私権を巡る奪い合い、殺し合いが、歴史を形作る一面であったことは否めない。或いは、書物に記された歴史の本質とは、私権を巡る闘争の蓄積そのものだと言い切っても良いだろう。

エサを巡り、同類同士で相争う動物は人間に限ったことではない。しかし、人類の同類闘争が、容易に殺し合いに発展することなど、少しばかり歴史を紐解けばわかりきったことである。もちろん、人殺しは良くない。それは法律以前で既に罪である。しかしながら、私権を脅かされることが、即ち生存を脅かされるのと同義である「私権時代」に生きている者として、この被害者は余りに軽率であったと謗られてもやむをえないだろう。

食の有り余る現代において「弁当が横になっていた」(ってどういう状態なのかいな? 実はよくわからないが、それによって財産生命が脅かされたということはあるまい)という程度のことで「牛丼店に十数回電話をかけ、8月下旬以降も数回、容疑者を呼び出して謝罪を求め」るとは、まるで偏執狂である。それとも、容疑者の対応が人として許すべからざるほど傲慢無礼であったのであろうか。前者であるならば、それは憎しみをかっても仕方なく、後者であれば、まさしくそのような人間に絡んだ無謀が命を落とす原因になってしまって当然のことである。

経済的に貧困の中にあり、常に他者との距離を計っていなければ生きていけなかった時代、居丈高に振舞い、怨みをかうなどといった行為は厳に戒めるべきことであった。大人しく生きてても、理不尽にも殺されてしまうことが、かつての日本でも少なからずあったのである。事故でも、偶然でもなく。増してや恨みなどかえば、どこでどう殺されてしまうかわからなかったのである。これは、大昔の戦国時代だのそれ以前の古代の話をしているのではない。ついこの間、「昭和」と年号のついた日本での話である。

実際、程度というものがわかっていない人間が少なくない。他者の「私権」を脅かすことがどれほど危ういことかを認識していない人間が増えている。昔、「偉そう」にしている人間は、実際「権力」を握っている人間であった。「権力」の本質が暴力であることは今更言うまでもないであろう。まさしく、その力をもって他人の反発や反抗を押さえ込めたが故に、月のない夜道で襲われる危険が少なかったのである。そして、いかに強大な権力を握ろうとも、その危険性を零にできなかったことも、また、歴史の語るところである。ところが今や、そんな後ろ盾すらないにも関わらず、傍若無人を地で行くものが至る所で目につく。それらの人々は、私権時代に生きるということの恐ろしさ、もっといえば、「私権」そのものの恐ろしさがわかっていないのだ。

原始の頃、他の部族や民族と日常接することがなく、生産財をそれなりに確保できてある状態では、私権そのものが発想される余地がない。しかし、気候の変化や人口の増大などによって他の部族や民族と恒常的に接し、食料を確保しなくてはならなくなった時、自分たちの縄張りを主張することは、生きていくために当然のことであっただろう。気象条件によっては、単に縄張りを確保しているだけでは食い詰める事態も発生したに違いない。その時、死なないためにはどうするか。他部族他民族の事情など無視して、自分たちの食料を確保するしかない。また逆に、普段、自分たちが食料を確保していたところで他部族他民族が食料を漁っていればどうするか。これを防止しなければ、今度は自分たちが食い詰めてしまう。となれば実力で排除するしかない。

即ち、生きていくためにその邪魔となる同類を「暴力」でもって「黙らせた」のが「私権」の始まりなのである。

そして現代は「私権」によって確保された生活財がないと生きていくことができない「私権時代」である。直接的に私有物を奪うことはしなくても、その基盤となる職業や家庭を執拗に攻撃することは、「私権」の剥奪=生存権の剥奪に繋がる行為でしかないのだ。とするならば、これを止めさせるにはどうするか。答えは自明である。何らかの実力をもって阻止するしかない。それは人によって経済力であったり、社会的影響力であったりするのかも知れない。しかし、そのようなものを持たない者は、結局、物理的な阻害力=暴力に頼るしかない。加えて、半端に生かしておけばまた攻撃に来ると思い込んでしまえば、結果はただひとつ。殺してしまうしかない。

そうすればもう脅かしに来ることはないのである。

私は何も法を守らなくて良いとか、無政府状態にあるのが当然などといった議論をしたいわけではない。しかし、いかなる生物であろうと生存を脅かされれば文字通り必死になって行動するものであるし、逃げ場がないとなれば、物理的に反撃してくるものなのである。その当然の理に気づきもせず、小市民面してあたかも当然の権利のように他者を責め、その「私権」に攻撃を加えた結果、反撃されただけなのだとすると、それは単なる自業自得でしかない。

この事件で真相がどうであったのかはわからない。しかし少なくとも、「私権時代」というのはそういう危うさを日常的に孕んでいる時代なのであるということを我々は、肝に銘じるべきであろう。

如何にネオンが煌き、街灯が燦然と輝いていたとしても、月のない夜道は、やはり今でも物騒なのである。

闇サイト:犯罪横行…捜査当局も手を焼く

別段珍しくも何ともない記事だが、丁度サンプルになるので、取り上げてみた。

詳しくは、当該の記事を参照して頂くとして、つまるところ、「インターネットが犯罪の温床になりつつある」かのように読者の不安を煽っているという内容である。確かにそういう側面があることは否定しないし、インターネットアクセス端末(携帯電話が特に著しいが)の普及に伴い、犯罪に利用されることも増えているだろう。

しかし、問題は、マスコミがこのような記事を単に事実を報道するためだけに掲載しているのではないという点にある。

例えば件の記事は、犯罪者が「(インターネット上の)闇サイトの匿名性」を悪用して仲間を募集し、「ネットカフェのパソコンや闇サイトで取引され(て不正に入手し)た携帯電話を使い、(警察の)追跡捜査を困難にしている。」としている。

# 上記段落中、「」内は引用。()は私が追記した注釈。以下も同じ。

問題はここから。「応募する側も、小遣い稼ぎで口座を転売したり、定職を持つ人が実行役に募集するケースもある」と、あたかも健全な市民が犯罪に手を染めるきっかけとなるかのような書き方をし、警視庁幹部の談話の形で「一般の人が罪の意識もなく犯罪に手を染める環境になりつつある。ただ『もうかります』と書き込んだだけで摘発したり、サイトを規制することはできない」と、無知な国民を陥れる悪辣な犯罪ツールが存在するのに、法で規制されていないため取り締まりもできないかのように結論付ける。その直後に、弁護士談話として「犯罪を助長するような内容であっても、表現の自由との兼ね合いで規制は難しい。」とあるのはそういう結論に読者を誘導するためだ。最後に大学教授の談話として「民が一体になり、ネットの危険性をユーザーに伝える努力が必要ではないか。膨大なサイトをプロバイダーに確認しろというのは酷だ。」と一見当たり前のようで、つまるところ、「インターネットとは無法地帯かなにかのようだ」と言わんばかりの落ちをつける。

で、何が問題かというと、これが「悪者はあいつだ!」とでっち上げて、一般大衆を扇動するマスコミの常套手段だという点にある。別に毎日新聞だけのことではなく、増してやマスコミが新興のメディア(?)であるインターネットの悪口を言っているなどという矮小な問題なのでもない。根本原因の追究だとか、背景構造の分析だとか、要は「本当に問題なのは何なのか」ということが全く検討もされず、取り敢えず「あいつが悪者」と言っておけば、何かを言ったような気になっていると思われる点が問題なのである。上記の記事にしたところで、「インターネットは危ない」ということしか言っていないのだ。しかもその根拠は、「闇サイト」が蔓延しているから。全く、思考停止以外の何物でもない。

確かに短い記事で全てを言い尽くすことはできないが、それならそれなりの書き方をすべきであろう。少なくとも、このやり口は、かつてナチス党がワイマール体制を罵倒し、ユダヤ人を国家の敵と名指しすることで権力を奪取し、支配体制の維持を図ろうとしたことと何も変わらない。

いや、既に言い古されたことだろうが、現代のマスコミは第三権力として、その持てる力を余すことなく振るうことができるという点を踏まえると、より悪質であると言っても過言ではなかろう。なにせ、反論ですら、極めて困難であり、大抵の場合、事実上不可能だからである。

とはいえ、マスコミ人も紋切り型の記事さえ垂れ流しておけば、わが身安泰と思っているわけではなかろう。彼らの言う、報道の使命というものを多少なりとも真面目に考えている人なら尚更である。それにしては、目の覚めるような着眼点だとか論点だとかに、少なくともここ数年はお目にかかったことがない。

なぜだろうか?

彼らも日々「記事を生産する」という仕事に追われ、時間のかかる、手間もかかる、おまけに人手もかかるような構造分析や原因追究ができないでいるのだろうか。しかし、「真実を報道する」というのが彼ら自身の存在意義のはずだ。真実とは、断じて思考停止のことではない。その存在意義をうっちゃって、仕事も何もあったものではない。

待て待て。何も彼ら自身で真実の追究を行わなくてはならないものでもない。要は、それを報道するのが彼らの役割だからだ。彼ら自身にできないのであれば、学者だの評論家だのという知識人に委ねればよい。しかし、よく考えると、マスコミのネタ元はそういう知識人である。その知識人自身からそのような論点が出てこないからこそ、思考停止の見本のような記事や番組が量産されていると言うことができる。

と、するならば、もはや現代の知識人には、そのような力がないと考えるべきではないだろうか。それが引いては、マスコミの体たらくとなって現れているのではないだろうか。にも関わらず、なお何かしら意見を述べ立てなくてはならないからこそ(それが日々の仕事なので)、例として取り上げた上記の記事のように、取り敢えずそれらしい対象をでっち上げることで、原因や事態を把握している風を装わねばならないのではないか。

更に言えば、これを常套手段と言い切ったのは、ここ二、三年の傾向を見てそう判断したのではなく、かなり昔からそういう手法が採られているように思えたからで、そうすると、これは現代マスコミや知識人の資質だとか、業界事情だとか言った類の問題ではなく、もっと本質的な部分で、事実の追究や分析を阻害するものを内包していることに、そもそもの原因があると考えられるのである。

第二次世界大戦前、参戦を煽るだけ煽っておいて、いざ敗戦となると口を噤んで、あたかも自らが一貫して反戦の使徒であったかのように振る舞い(特に朝日は酷いですね)、反省や懺悔などどこ吹く風(その癖、政治家に弱みを見れば、歴史を捏造してまで謝罪と反省を要求する始末)。厚顔無恥なだけかと思っていたら、どうやらそれだけではなさそうだ。今更マスコミの論じるところを鵜呑みにする人も多くはないだろうが、それにしてもオピニオンリーダーを自称するなら、もう少し危機感に溢れていてもおかしくはないと思うのだが、

それとも、マスコミの方々は、自分たちが未だに輿論を産み出し、導いているし、今後もそれは変わらないという幻想に浸っておられるのであろうか。

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