無自覚に「私権」を脅かす人々の結末

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雅楽多blogがネタ元。

会社員殺人、牛丼店の店長逮捕…相次ぐクレームに激怒

傲慢無礼な人間が絶えることはないのだろうか。

現代日本は、私権社会である。私権の対象は、時代に伴い、移り変わってきたというものの、有史以来、私権を巡る奪い合い、殺し合いが、歴史を形作る一面であったことは否めない。或いは、書物に記された歴史の本質とは、私権を巡る闘争の蓄積そのものだと言い切っても良いだろう。

エサを巡り、同類同士で相争う動物は人間に限ったことではない。しかし、人類の同類闘争が、容易に殺し合いに発展することなど、少しばかり歴史を紐解けばわかりきったことである。もちろん、人殺しは良くない。それは法律以前で既に罪である。しかしながら、私権を脅かされることが、即ち生存を脅かされるのと同義である「私権時代」に生きている者として、この被害者は余りに軽率であったと謗られてもやむをえないだろう。

食の有り余る現代において「弁当が横になっていた」(ってどういう状態なのかいな? 実はよくわからないが、それによって財産生命が脅かされたということはあるまい)という程度のことで「牛丼店に十数回電話をかけ、8月下旬以降も数回、容疑者を呼び出して謝罪を求め」るとは、まるで偏執狂である。それとも、容疑者の対応が人として許すべからざるほど傲慢無礼であったのであろうか。前者であるならば、それは憎しみをかっても仕方なく、後者であれば、まさしくそのような人間に絡んだ無謀が命を落とす原因になってしまって当然のことである。

経済的に貧困の中にあり、常に他者との距離を計っていなければ生きていけなかった時代、居丈高に振舞い、怨みをかうなどといった行為は厳に戒めるべきことであった。大人しく生きてても、理不尽にも殺されてしまうことが、かつての日本でも少なからずあったのである。事故でも、偶然でもなく。増してや恨みなどかえば、どこでどう殺されてしまうかわからなかったのである。これは、大昔の戦国時代だのそれ以前の古代の話をしているのではない。ついこの間、「昭和」と年号のついた日本での話である。

実際、程度というものがわかっていない人間が少なくない。他者の「私権」を脅かすことがどれほど危ういことかを認識していない人間が増えている。昔、「偉そう」にしている人間は、実際「権力」を握っている人間であった。「権力」の本質が暴力であることは今更言うまでもないであろう。まさしく、その力をもって他人の反発や反抗を押さえ込めたが故に、月のない夜道で襲われる危険が少なかったのである。そして、いかに強大な権力を握ろうとも、その危険性を零にできなかったことも、また、歴史の語るところである。ところが今や、そんな後ろ盾すらないにも関わらず、傍若無人を地で行くものが至る所で目につく。それらの人々は、私権時代に生きるということの恐ろしさ、もっといえば、「私権」そのものの恐ろしさがわかっていないのだ。

原始の頃、他の部族や民族と日常接することがなく、生産財をそれなりに確保できてある状態では、私権そのものが発想される余地がない。しかし、気候の変化や人口の増大などによって他の部族や民族と恒常的に接し、食料を確保しなくてはならなくなった時、自分たちの縄張りを主張することは、生きていくために当然のことであっただろう。気象条件によっては、単に縄張りを確保しているだけでは食い詰める事態も発生したに違いない。その時、死なないためにはどうするか。他部族他民族の事情など無視して、自分たちの食料を確保するしかない。また逆に、普段、自分たちが食料を確保していたところで他部族他民族が食料を漁っていればどうするか。これを防止しなければ、今度は自分たちが食い詰めてしまう。となれば実力で排除するしかない。

即ち、生きていくためにその邪魔となる同類を「暴力」でもって「黙らせた」のが「私権」の始まりなのである。

そして現代は「私権」によって確保された生活財がないと生きていくことができない「私権時代」である。直接的に私有物を奪うことはしなくても、その基盤となる職業や家庭を執拗に攻撃することは、「私権」の剥奪=生存権の剥奪に繋がる行為でしかないのだ。とするならば、これを止めさせるにはどうするか。答えは自明である。何らかの実力をもって阻止するしかない。それは人によって経済力であったり、社会的影響力であったりするのかも知れない。しかし、そのようなものを持たない者は、結局、物理的な阻害力=暴力に頼るしかない。加えて、半端に生かしておけばまた攻撃に来ると思い込んでしまえば、結果はただひとつ。殺してしまうしかない。

そうすればもう脅かしに来ることはないのである。

私は何も法を守らなくて良いとか、無政府状態にあるのが当然などといった議論をしたいわけではない。しかし、いかなる生物であろうと生存を脅かされれば文字通り必死になって行動するものであるし、逃げ場がないとなれば、物理的に反撃してくるものなのである。その当然の理に気づきもせず、小市民面してあたかも当然の権利のように他者を責め、その「私権」に攻撃を加えた結果、反撃されただけなのだとすると、それは単なる自業自得でしかない。

この事件で真相がどうであったのかはわからない。しかし少なくとも、「私権時代」というのはそういう危うさを日常的に孕んでいる時代なのであるということを我々は、肝に銘じるべきであろう。

如何にネオンが煌き、街灯が燦然と輝いていたとしても、月のない夜道は、やはり今でも物騒なのである。

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このページは、matu'koが2004年12月13日 01:57に書いたブログ記事です。

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