今度はムーミンときたもんだ

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ムーミン:世界知的所有権機関 ドメイン名譲るよう裁定-MSN-Mainichi INTERACTIVE

こんなことを始めたのは、インターネット発祥の国アメリカの人間なんだが、相も変わらず、こうやって旨い汁をかすめ取ろうとする奴はいるんだなぁと思う。まあ、使いもしない商標をむやみに登録して企業から金を巻き上げようとする輩は昔から後を絶たないし、それはインターネットでもご同様というわけで。

別に万人に対して「パイオニアであれ」という気は毛頭ないが、犯罪でもないのに、至極さもしい行為のように思うのはなんでだろう。と、問うも愚かで、要するに、金にいぎたない姿が見通せるからこそ、嫌悪感を抱くのだ。

古代から連綿と続いてきた私権を至上のものとするイデオロギーは、詰まるところ財産を一番集めることのできる人間が偉いとする価値体系だが(もちろん、近代資本主義も方法論の違いは別として、その末流にあることは言を俟たない)、だからといって世評というものを無視できるものではなく、そのバランスを欠いた私欲むき出しの姿勢が非難を受ける根本にある。

# まあ、それをマスコミが指摘するところがナニではあるが。

礼記には「礼は庶人に下らず」とあるが、道義もへったくれもなく、食っていくために汲々とした生活を送る人間にそんなことを説いても無駄であると見なしていたからに過ぎない。「刑は太夫に烝らず」とは裏返せば、そういう弁えのない生活を送るやつがれは、誰かが罰を下さないと社会秩序を乱すという認識に基づいていることを意味する。孟子は「恒産なければ恒心なし」と斉の宣王に説いた。統治という観点から語られた言葉であるが、世は戦国時代。実際、庶人は、財産もなく、食っていくだけで大変な時代であり、また、元は公族でも家産が細れば見苦しく足掻く者が少なくなかったことを考えると、統治者が充分に戒めとする必要のあった言葉なのであろう。しかし、収奪する側が収奪される側をそう評することに問題がないわけではないにしろ、現代においてわざわざその評言に当てはまる行動を取ることに社会的な意味を見出すことは難しい。あるいはそう思うのは私だけだろうか。

例えば、現代日本では、貧困はノスタルジーを以って語られる経験であり、実際にこれを体験した世代は少なくなり、極言すれば、現代日本は貧困の圧力を完全に克服している状態と言ってもよいだろう(例外的に貧しい人が存在することはもちろん承知しているが、国全体の生産力が乏しく、大多数の国民が貧困の最中にあるという状況は、70年日本万国博覧会をその分水嶺として、急速に消滅していったことに異論を差し挟む人はいまい)。つまるところ、物質的には充分豊かなのである。にも関わらず、他人の成果におんぶに抱っこで不労所得を掠め取ろうとする人間が絶えないのはなぜか。

人は幼少の頃に刷り込まれた認識をそうそう改めることはできない。物欲が活力源であり、貧困が動力源であった時代は長かった。今でこそ、「心の豊かさ」だの「本当の自分探し」だのと浮かれていられるが、そうではない時代に形作られた規範はなかなか忘れられることはない。ましてや「平成大不況」と言われ、ここ十数年に渡り「不景気」ともなれば、改めてその頃の認識が頭をもたげてくることを押し留める事は難しい。

物質的に豊かな世の中になったというのに、結局、物欲最優先=金儲け最優先=私益最優先であることを人々は忘れていない。冒頭の事例は、ちょっとそれが露骨なだけだ。二千年以上の遥か太古より語られてきたことが、未だ持って通用するということは、即ち、その頃から人々の認識がさして進んでいないことも意味している。もちろん、現代でも金を稼がないと生きていけない世の中であることは間違いない。しかし同時に、現代人はそういう暮らし方にどこか不満を持っている。それも、もっと財産を寄越せという、物欲的な不満ではない。今更「心の豊かさ」などということを声高に述べる者も少なくなってはいるが、少なくとも「金、物欲、私益」優先という価値観に不毛なものを感じ、もっと違うものがあるのではないかと、試行錯誤を繰り返している。近年のボランティア活動の高まり、NGOの流行なども根を同じくしている。ところが、それはとても世の中を変えるなどといううねりに育ちもせず、関心を同じくする人の間で小さくまとまっているに過ぎない。

これが、近代資本主義の矛盾に原因を求めることができる程度のものならば、近いうちに貧困を知らない世代が社会を指導する立場に立ったとき、大きな転換があることを期待することができるであろう。しかし、先に述べたとおり、二千年より遥かな太古より続く価値観から全く外れもしない行動であることを考えると、問題はそんな皮相なところにないことが明らかである。

現実にその日暮らしを重ねているわけでもないのに、その日暮らしを送っていたものと価値観が変わらない。変えることができない。唯物史観でいうところの、農耕生産時代、工業生産時代を通じて共通して変わらない。それはつまり、この長い時代の変遷を経ても変わっていない『私権』という価値観そのものが、問題の根源にあるとしか考えられないことを意味する。春秋戦国時代以降、鄭の子産や魯の孔子が体系だてた社会を維持するための思想体系である『礼』が、結局は破られる方向で時代が推移したのも、誰かに属しないものなど認めないその価値観(これを制度化したものを『私有制度』という)、誰かに属している以上それは奪えるものであるという価値観(これの方法論が『武力行使』である)が根本にあっては、結局、身の回りの人間関係を円滑にするもの以上の力を持ち得なかったからである。

協調妥協はありえても共存共栄はありえない。私権とはそういうものである。それはうんざりするほど歴史が証明している。だからこそ冒頭に上げた「ムーミン・ドメイン」の例も、人々は眉を顰めこそすれ、犯罪とされることはないし、似たような事例も、また絶える事もない。

現代社会に対する不満、或いは既に、不安と呼んでも差し支えのないほど先行きに不透明感を感じている人々が多数を占めるこの時にあって、大概、小手先のボランディアやNGO活動で現実から目を背けるのではなく、我々は新たな価値観、新たな認識を確立することに目を向けるべきではないだろうか。

もちろんそれは共産主義などというイデオロギーであってはならないし、単純な私有制度否定に走るヤマギシズムのような一面的かつ粗野な観念であってもならない。どちらも短期間で失敗している以上、わざわざ取り上げるまでもない。むしろ、露骨な私益的態度に対する非難の念の生じるところ、かつては『礼』と呼ばれたもの。村落共同体の濃密な人間関係の根本にあったもの。かろうじて現代でも語られる『家族』の紐帯をなすもの。それらの拠って来る根本に我々の立ち返るところ、そして、新たな社会を築く礎となる価値観を見出すことができるのではないかと考える。

人は人の間にあってしか生きていくことはできない。群れを成し社会を形作ることを生存戦略に選んだ生命体としてそれは逃れうることの適わぬ必然である。そのことに、結局は、単なる交際や世間体、体面といった形式以上の意味を与えてこなかったのが、有史以来の人類であった。そのことが原因で現代に不満や不安を抱いているのであれば、それを越えていくことこそ、生命として正しい進化というものでもあろう。

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このページは、matu'koが2004年12月11日 04:01に書いたブログ記事です。

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