2004年11月アーカイブ

闇サイト:犯罪横行…捜査当局も手を焼く

別段珍しくも何ともない記事だが、丁度サンプルになるので、取り上げてみた。

詳しくは、当該の記事を参照して頂くとして、つまるところ、「インターネットが犯罪の温床になりつつある」かのように読者の不安を煽っているという内容である。確かにそういう側面があることは否定しないし、インターネットアクセス端末(携帯電話が特に著しいが)の普及に伴い、犯罪に利用されることも増えているだろう。

しかし、問題は、マスコミがこのような記事を単に事実を報道するためだけに掲載しているのではないという点にある。

例えば件の記事は、犯罪者が「(インターネット上の)闇サイトの匿名性」を悪用して仲間を募集し、「ネットカフェのパソコンや闇サイトで取引され(て不正に入手し)た携帯電話を使い、(警察の)追跡捜査を困難にしている。」としている。

# 上記段落中、「」内は引用。()は私が追記した注釈。以下も同じ。

問題はここから。「応募する側も、小遣い稼ぎで口座を転売したり、定職を持つ人が実行役に募集するケースもある」と、あたかも健全な市民が犯罪に手を染めるきっかけとなるかのような書き方をし、警視庁幹部の談話の形で「一般の人が罪の意識もなく犯罪に手を染める環境になりつつある。ただ『もうかります』と書き込んだだけで摘発したり、サイトを規制することはできない」と、無知な国民を陥れる悪辣な犯罪ツールが存在するのに、法で規制されていないため取り締まりもできないかのように結論付ける。その直後に、弁護士談話として「犯罪を助長するような内容であっても、表現の自由との兼ね合いで規制は難しい。」とあるのはそういう結論に読者を誘導するためだ。最後に大学教授の談話として「民が一体になり、ネットの危険性をユーザーに伝える努力が必要ではないか。膨大なサイトをプロバイダーに確認しろというのは酷だ。」と一見当たり前のようで、つまるところ、「インターネットとは無法地帯かなにかのようだ」と言わんばかりの落ちをつける。

で、何が問題かというと、これが「悪者はあいつだ!」とでっち上げて、一般大衆を扇動するマスコミの常套手段だという点にある。別に毎日新聞だけのことではなく、増してやマスコミが新興のメディア(?)であるインターネットの悪口を言っているなどという矮小な問題なのでもない。根本原因の追究だとか、背景構造の分析だとか、要は「本当に問題なのは何なのか」ということが全く検討もされず、取り敢えず「あいつが悪者」と言っておけば、何かを言ったような気になっていると思われる点が問題なのである。上記の記事にしたところで、「インターネットは危ない」ということしか言っていないのだ。しかもその根拠は、「闇サイト」が蔓延しているから。全く、思考停止以外の何物でもない。

確かに短い記事で全てを言い尽くすことはできないが、それならそれなりの書き方をすべきであろう。少なくとも、このやり口は、かつてナチス党がワイマール体制を罵倒し、ユダヤ人を国家の敵と名指しすることで権力を奪取し、支配体制の維持を図ろうとしたことと何も変わらない。

いや、既に言い古されたことだろうが、現代のマスコミは第三権力として、その持てる力を余すことなく振るうことができるという点を踏まえると、より悪質であると言っても過言ではなかろう。なにせ、反論ですら、極めて困難であり、大抵の場合、事実上不可能だからである。

とはいえ、マスコミ人も紋切り型の記事さえ垂れ流しておけば、わが身安泰と思っているわけではなかろう。彼らの言う、報道の使命というものを多少なりとも真面目に考えている人なら尚更である。それにしては、目の覚めるような着眼点だとか論点だとかに、少なくともここ数年はお目にかかったことがない。

なぜだろうか?

彼らも日々「記事を生産する」という仕事に追われ、時間のかかる、手間もかかる、おまけに人手もかかるような構造分析や原因追究ができないでいるのだろうか。しかし、「真実を報道する」というのが彼ら自身の存在意義のはずだ。真実とは、断じて思考停止のことではない。その存在意義をうっちゃって、仕事も何もあったものではない。

待て待て。何も彼ら自身で真実の追究を行わなくてはならないものでもない。要は、それを報道するのが彼らの役割だからだ。彼ら自身にできないのであれば、学者だの評論家だのという知識人に委ねればよい。しかし、よく考えると、マスコミのネタ元はそういう知識人である。その知識人自身からそのような論点が出てこないからこそ、思考停止の見本のような記事や番組が量産されていると言うことができる。

と、するならば、もはや現代の知識人には、そのような力がないと考えるべきではないだろうか。それが引いては、マスコミの体たらくとなって現れているのではないだろうか。にも関わらず、なお何かしら意見を述べ立てなくてはならないからこそ(それが日々の仕事なので)、例として取り上げた上記の記事のように、取り敢えずそれらしい対象をでっち上げることで、原因や事態を把握している風を装わねばならないのではないか。

更に言えば、これを常套手段と言い切ったのは、ここ二、三年の傾向を見てそう判断したのではなく、かなり昔からそういう手法が採られているように思えたからで、そうすると、これは現代マスコミや知識人の資質だとか、業界事情だとか言った類の問題ではなく、もっと本質的な部分で、事実の追究や分析を阻害するものを内包していることに、そもそもの原因があると考えられるのである。

第二次世界大戦前、参戦を煽るだけ煽っておいて、いざ敗戦となると口を噤んで、あたかも自らが一貫して反戦の使徒であったかのように振る舞い(特に朝日は酷いですね)、反省や懺悔などどこ吹く風(その癖、政治家に弱みを見れば、歴史を捏造してまで謝罪と反省を要求する始末)。厚顔無恥なだけかと思っていたら、どうやらそれだけではなさそうだ。今更マスコミの論じるところを鵜呑みにする人も多くはないだろうが、それにしてもオピニオンリーダーを自称するなら、もう少し危機感に溢れていてもおかしくはないと思うのだが、

それとも、マスコミの方々は、自分たちが未だに輿論を産み出し、導いているし、今後もそれは変わらないという幻想に浸っておられるのであろうか。

ぼうっと暮らしているうちに、気がつけば不惑を経て数年。裕福というわけではないが、生活に困っているわけでもない。体調を崩しやすくなったのが、いつまでも若くはないんだなぁと思うくらいで、至って平々凡々に過ごしている。老後のことはどうするんだとか、いつまでも独りでふらふらせずに、後添えを貰いなさいとか、そういう声も無きにしも非ずだが、静かに暮らすのが性に合っているということなんでしょう。

あらゆることに勤勉であることを至上の美徳とする日本人の一員としては、ちょっと問題のある生活スタイルかなとも思うけど、そもそもそんなものって明治の富国強兵政策の下、当時政府が必死になって導入した学校教育で刷り込まれ続けた結果、「24時間戦いますっ!」てな勤労スタイルが全国で当たり前になっただけで、多少その価値観から外れたところにあるからといって、悲観もしないし、奮起もしない。歴史は偉大である。たかだか100年程度押し付けらた価値観は、真に根付くことなく、現実に追い越されようとしている。なので、真面目に働いてるんだから、いいじゃないか。で済んでしまう。

起きたら仕事に行き、ほやっとした顔で一日の仕事を済ませ、食事をし、寝床で横になりながらネットサーフィンをたらたらとしてると、眠くなるので、寝る。週末は買い物をし、洗濯物を片付け、馴染みのショットバーへ呑みにいき、この度めでたくそこのマスターと結婚して、来年子供もできる元アルバイトで、今や青色事業専従者となった女の子にお話のお相手をしてもらう。たまにセキュリティホールなんぞが知れ渡ったりするので、自分ちのサーバの面倒を見る。そうやって日々が過ぎていく。

多分、気がついたら、じじぃになっていて、やっぱりぼうっと生きていて、週末は馴染みのバーで呑んでるように思う。やっぱりコンピュータをいじってて、たまには若き日を偲んでギャルゲーなんぞをこっそりやってみたり。そんな風に生きてるんだろう。

何がしかの不安を生活に抱え、それでも概ね平穏に日々が積み重ねられていく。あっと驚くようなドラマもなく、劇的な事件もない。淡々と生きていく。良くも悪くも、それが現代風の幸せであると思う。人間万事塞翁が馬を心がけながら、今を洞察し、将来に手を打つ。言うは易く、行なうは難しの典型であるが、少なくとも心臓には良い生き方だと思う。

マスコミを信用せず、世の知識人が語るお仕着せの価値観を軽蔑し、得々と経験を語る輩は敬遠し、実績を言葉で粉飾しようとする人は聞き流す...ということを実践していたら、いつの間にかそういう生活になっていた。自分の責任を弁え、応分に果たすことに専念することで、心配は心配で終わり、あるいは結果を受け入れることができるようになる。やる気もないのに咆哮し、根拠のない戯言を弄することを覇気があると思い込んでいるような人には理解しがたいようだが、今、現代を生きていくには、多かれ少なかれ、必要な生き方だと思っている。

無批判に現状を受け入れ、馬車馬のように働くのは、奴隷が強制される生き方である。「不景気だから仕方ない」そもそも本当に『不景気』なのか?あるいはそうだとして、一生懸命働くことは良いことだと思うが、なぜそうなったのか考えているのか?「青少年の犯罪が増えているらしい。子供の身にもいつ何が降りかかるか心配で」増えている?増えているのか?仮にそうだったとして、心配しかしないのか?「北朝鮮の拉致問題は...」家族を応援し、政府に義憤をぶちまけることはさて置いて、国民として憂うるのはそれしかないのか?一見現状に不満を持ち、改革を求めているように見られても、自ら解決する意思がなければ、ただ騒げと命じられたから騒いでいる以上の意味はない。それは自立を求める精神には不要な勤勉さであると言い切ってよい。

勿論、現実を受け入れることは重要なことで、お手軽に済ませられる生活などありえない。背負った荷の重さはそれぞれにしかわからないということもわかる。だからこそ、自分で考えることができるようでありたい。拠って立つところを見失うことのないようにしたい。そうやってそして、恬淡と過ごしていくことが、豊かな暮らしを手に入れるための第一歩であると思う。

明日もまた仕事に行き、ほやっとした顔で仕事を進め、帰ってきたら食事をし、風呂に入って温まる。ちょっとビールなんかも呑んだりして、ネットサーフィンに興じ、床につく。週末はウェブサイトの模様替えなどを考え、年末も近いので帳簿データを整理する。いつもの日常を繰り返す。生きているということは、そういうことだと今この歳では考える。

そう。私は生きている。

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